始業9時に、科学的根拠はない
始業9時は、どこから来たのか。
結論から書くと、人間の生理から導かれた時刻ではありません。9時に始めると生産性が最大になる、という研究があって決まったわけでもない。9時は、いくつかの都合が積み重なった結果です。
9時は、たぶん「工場の時間」から来ている
近代の勤務時間の原型は、工場にあります。機械を動かす時間を揃え、交代で回すために、始まりと終わりの時刻が全員で共有される必要があった。個人が好きな時刻に作業を始めると、ラインが成立しないからです。
そこに、いくつかの条件が乗ります。
- 通勤の集中:鉄道やバスのダイヤは、全員が同じ時刻に動くことを前提に組まれた。ダイヤが固まると、今度はダイヤが始業時刻を固定する
- 役所と取引先:官公庁や銀行の営業時間に合わせないと、事務が回らない
- 一斉であることの管理しやすさ:全員が同じ時刻にいれば、来ていない人がひと目でわかる
つまり9時は、同期のための時刻です。同期には価値があります。会議はできるし、引き継ぎもできる。問題は、同期する必要のない仕事まで、同期を前提に設計されていることです。
「朝のほうが頭が働く」は、誰にとってか
始業を早める根拠としてよく挙げられるのが、「朝は頭が冴えている」という話です。
これは、間違いではありません。ただし主語が抜けています。認知能力のピークがいつ来るかは、その人のクロノタイプに強く依存します。朝型の人は午前中にピークが来て、夜型の人は午後から夕方にかけて来る。同じ時計を見ていても、体の中の時計はずれている。
「朝のほうが頭が働く」と言っている人は、たいてい本当にそうなのです。ただそれは、その人の話です。分布の反対側にいる人に当てはめると、その人が一番働かない時間帯に、一番大事な仕事を割り当てることになる。
会議が午前中に集中している組織は、この配分を毎日やっています。
9時が動いた例は、すでにある
始業時刻は動かせないもののように扱われますが、実際には動いています。
フレックスタイム制、時差出社、コアタイムの廃止。感染症の流行期には、多くの企業が数週間で出社時刻をずらしました。動かせないのではなく、動かす理由が共有されていなかっただけです。
学校でも、始業時刻を後ろへずらす試みが各国で行われてきました。10代は生理的に夜型へ寄るため、早い始業は睡眠時間そのものを削ります。米国シアトルの高校2校が始業を7時50分から8時45分へ遅らせたとき、生徒の睡眠時間は活動計による実測で34分延びました。誰かが早寝を頑張った結果ではありません。
ここで正直に書いておきます。始業を遅らせると睡眠は延びます。これは複数の研究で一致しています。けれど成績が上がるかどうかは、一致していません。21本の研究を集めた系統的レビューでは、9本が「関連なし」で、結論は「遅らせても成績は保たれる」というところに留まっています。175万人規模のメタ分析でも、はっきり出たのは睡眠時間・眠気・気分で、学業成績には関連が見られませんでした。だから当協会も、成績の話はしません。
繰り返しますが、これは誰かが早起きできるようになった話ではありません。線を動かした話です。
9時をやめると何が起きるか
始業を10時にすると、9時台に「遅刻」だった人の一部が、遅刻ではなくなります。それだけです。誰も治っていません。
このとき失われるものもあります。朝一番に全員が揃わなくなる。同期の総量が減る。そこは正直に認めるべきところで、当協会も「始業時刻を全廃せよ」とは言いません。
言っているのはこうです。同期が必要な業務の量に対して、いま強制されている同期の量は多すぎるのではないか。 そして、その過剰な分のコストを、分布の右側にいる人たちだけが個人の落ち度として払っているのではないか。
9時という数字そのものに生理的な根拠がないのなら、その数字を守るために誰が何を払っているかは、一度計算してみてよいはずです。同期には価値がある。けれど、9時ちょうどでなければ得られない価値が、どれだけあるでしょうか。
参考文献
- Dunster GP, de la Iglesia L, Ben-Hamo M, et al. “Sleepmore in Seattle: Later school start times are associated with more sleep and better performance in high school students.” Science Advances. 2018;4(12):eaau6200. doi:10.1126/sciadv.aau6200
- Korman M, Tkachev V, Reis C, et al. “COVID-19-mandated social restrictions unveil the impact of social time pressure on sleep and body clock.” Scientific Reports. 2020;10:22225. doi:10.1038/s41598-020-79299-7
- Biller AM, Molenda C, Zerbini G, Roenneberg T, Winnebeck EC. “School start times and academic achievement — A systematic review on grades and test scores.” Sleep Medicine Reviews. 2022;61:101582. doi:10.1016/j.smrv.2021.101582
- Yip T, Wang Y, Xie M, Ip PS, Fowle J, Buckhalt J. “School Start Times, Sleep, and Youth Outcomes: A Meta-analysis.” Pediatrics. 2022;149(6):e2021054068. doi:10.1542/peds.2021-054068
- Thompson EP. “Time, Work-Discipline, and Industrial Capitalism.” Past & Present. 1967;38(1):56–97. doi:10.1093/past/38.1.56
- 日本標準時: 明治19年勅令第51号「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」、明治21年1月1日施行
※「9時始業」が工場と鉄道から広まった、という因果そのものは、史学的にはまだ裏を取れていません。確かなのは、標準時と一斉始業という仕組みが19世紀後半以降のものだ、というところまでです。
当協会は医療機関ではありません。本稿は睡眠に関する診断・治療についての助言ではなく、社会制度と設計についての主張です。 睡眠に関する困りごとが日常生活に支障をきたしている場合は、専門の医療機関にご相談ください。 当協会は参加者に診断を求めず、医療上の判断も行いません。